創立に関わった2人の重要人物

福井 直秋~武蔵野音楽学校の創始者~

利発だった少年は、ひときわ声がよく、歌がうまかったと言われています。尋常小学校の思い出として直秋は 「柳原たつ先生が教壇にベビーオルガンを載せ、音符の掛図を示しながら美しい声でヒフミヨ(音階)を熱心に教えてくれた」と述べています。武蔵野音楽大学の設立に関わっていくことになるとは、当時の本人と家族は予想もしなかったでしょう。

生まれて初めて聞いたというベビーオルガンの音が少年の心に強い感銘を与えたことは、後年周囲の危惧を押し切って音楽の道へ進んでいったことを思えば想像に難くないようです。

1891年、高等小学校を首席で卒業した直秋は、ほとんどの学友が家業の農業を継いだなかでただ一人、母校の小学校で教師の手伝いをする授業生となりました。既に若くして教師としての片鱗を見せていたのです。当時、高等小学校を卒業した後、残る進学の道は中学校に進むか、小学校教員になるべく師範学校に進むか、に分かれていました。

そこで直秋は決定的影響を与える師にめぐり逢います。東京音楽学校を卒業したばかりの安田俊高である。彼はのちに有名な軍歌『橘中佐』を作曲したほどの才人で、音楽的教養も深く、その教育の仕方は極めて熱心であったという。直秋が己の音楽の才能を自覚し、真剣に音楽に没入していったのは彼の指導を受けてからといわれています。

直秋は戦前に武蔵野音楽大学の前進となる武蔵野音楽学校の設立に関わります。この学校が後に専門学校へ昇格し
し、終戦後に日本再建と教育充実の機運の中で、武蔵野音楽大学へ移行していくのです。
直秋は学校設立にあたって、私生活含めて、相当な困難を経験することとなります。

武蔵野音楽学校は、幸いに戦火をまぬかれましたが、学校がその本来の目的を遂げるためには、学生の食生活の充実と住居の確保、さらに戦争で荒廃した学校校舎、備品その他の整備、補充と多くの難題を抱えていました。武蔵野音楽学校は男子寮、図書館、書庫、渡り廊下、守衛室の五棟を増築しています。
そして、1948年、新制大学武蔵野音楽大学認可申請書を文部省に提出し、翌年、正式に文部大臣より新制大学の認可を受け、わが国で最初の音楽大学が誕生したのです。

福井 直弘~武蔵野音楽学園元理事長~

もう一人の人物は元理事長として武蔵野音楽大学、学園の発展に貢献した福井直弘です。
福井直弘は福井直秋の次男として東京に生まれ、1933年に東京音楽学校本科器楽科を卒業しました。

武蔵野音楽学校の講師を経て、ドイツのベルリン音楽大学に留学した後、武蔵野音楽学校の教授となったのです。
そして、1962年に創立者の理念を受けつぎ学長に就任した後、学園理事長を兼任しました。

武蔵野音楽学園の不断の発展に情熱を注ぐとともに、日本の音楽界、そして音楽教育界において大局的にその向上に貢献するにとどまらず、政府関係審議会委員、日本ユネスコ国内委員会委員、全日本音楽教育研究会会長、日本私立大学協会常務理事など、多くの役職に就き、大切な職務を果たしました。

さらにその活動は国内だけに留まらず、広く海外にまで及びました。
国際音楽教育会議(ISME)会長として、つねに世界の音楽教育界を指導する立場に立ち、多くの国際会議を組織するなど、世界的な文化交流と音楽教育の発展に寄与しました。
同時に、国際社会における日本への認識の深化に尽力したのです。

このような国際貢献に対して、フランス政府より文化功労賞を、オーストリア政府より文化芸術一級十字栄誉賞を、西独政府より文化芸術大功労十字栄誉賞、チェコスロバキア共和国よりスメタナメダルなど各国から数多くの栄誉賞を受賞しました。

学園内にあっては卓越した先見性をもって武蔵野音楽大学、入間校地の拡大、整備に努め、江古田校地の機能とあいまって音楽学園として理想の環境を築きあげました。
また、自ら先頭に立って世界の珍しい楽器の蒐集にあたり、1967年に設立した楽器博物館は、その資料の豊富さにおいて高く評価されています。