終戦後から新たな体制づくりまで

終戦後の新たな出発

終戦直後、創始者の福井直秋は論文『再建日本と音楽』のなかで「一切の過去の無策を排して芸術の国家的振興の策を確立しなければ、再建日本の精神的、道義的基盤は全く荒廃泥土と化しさるであろう」と訴え、日本が文化国家として再建されなければならないことを強く主張しました。彼の胸中には武蔵野音楽学校の新たな再建―新制大学としての再出発―への夢が膨らんでいたのです。しかし極端な貧困と混乱のなかにあって大学移行は難事業でした。
まず武蔵野音楽大学へ移行するためには、大学としての基準を満たす敷地や設備を整える必要があり、そのための資金集めが課題となりました。千名を超す卒業生と在校生父兄の協力を仰ぎ、寄付金募集を展開、直秋の情熱に共感する多くの篤志家の賛同もあり短期間で目標の30万円を調達し、敷地内に男子寮、図書館、書庫、渡り廊下、守衛室の5棟の増築が可能になりました。

校舎改築

福井直秋が心血を注いだ一連の校舎改築は多くの関係者の協力のもと、昭和35年(1960)のベートーヴェンホールの完成、続くわが国における戦後最初にして最大のパイプオルガンの設置で一段落しました。同ホールは一音楽大学のコンサートホールとしては破格の規模を持つだけでなく、理想の音響を追求した結果、建築学・音響学の当時としては最高技術が動員され、今なおわが国で最も音響効果のよいホールの1つといわれています。
1961年10月7日、偉容を誇る大パイプオルガンの披露式は、義宮殿下、秩父宮妃殿下をはじめ、各国の大公使、音楽関係者などのご列席のもと、この日のためにはるばる西独から来日したウィルヘルム・ケンプ氏を演奏者に招き盛大に行われました。

新体制の発足

1962年5月、功成り名遂げた福井直秋は学長辞任の決意を発表、理事長に専任することになり、福井直弘直弘学部長の学長就任が決定した。 ここに直秋によって築かれた基礎の上に更なる発展を目指す新体制が発足したのです。
昭和38年(1963) 、直秋にはまだ大任が残っていた。それは7月に開かれる「国際音楽教育会議(ISME)」の東京大会を最高責任者として成功させることです。ISMEの日本招致は直弘学長が積極的にかかわってきたプロジェクトで、日本の音楽関係者が世界の識者と音楽教育が抱えるさまざまな課題について直接対話を交わせる貴重な場を提供するものでした。東京文化会館を舞台に大会は皇太子殿下(現天皇陛下)のご臨席のもとで華々しく開会、直秋は全国音楽教育連合会会長および東京大会委員長として綿密な準備のもと8日間にわたるこの重要な国際会議を成功裏に終わらせました。

■昭和24年(1949)
   ● 2月21日 武蔵野音楽大学設置認可、福井直秋学長に就任
   ● 5月29日 創立20周年記念式典、大学開設祝賀会挙行
■昭和25年(1950)
   ● 3月14日 武蔵野音楽大学短期大学部第2部設置認可、福井直弘短期大学部学長に就任
■昭和26年(1951)
   ● 2月28日 財団法人武蔵野音楽学校から学校法人武蔵野音楽学園へ組織変更
         福井直秋音楽学園理事長に就任

   ● 5月 1日 武蔵野音楽大学附属幼稚園(現第一幼稚園)設置認可
   ● 5月 4日 大学別科設置認可
■昭和27年(1952)
   ● 2月20日 武蔵野音楽大学短期大学部第1部設置認可

■昭和28年(1953)
   ● 3月31日 武蔵野音楽大学専攻科および短期大学部専攻科設置認可
■昭和29年(1954)
   ● 6月14日 武蔵野音楽学校廃止認可
■昭和30年(1955)
   ● 4月23日 鉄筋コンクリート建地上4階地下1階、旧江古田1号館落成
■昭和32年(1957)
   ● 2月 2日 江古田2号館および3号館落成
   ● 4月27日 武蔵野音楽大学附属茂呂幼稚固(現第二幼稚園)設置認可
   ● 5月 1日 福井直弘短期大学部学長辞任、御崎善六就任
■昭和33年(1958)
   ● 1月10日 武蔵野音楽大学音楽学部第2部設置認可
■昭和34年(1959)
   ● 5月23日 創立30周年記念式典を挙行
   ● 6月19日 若竹寮(男子学寮)落成(昭和53年廃止)

■昭和35年(1960)
   ● 7月16日 軽井沢高原寮落成
   ●10月16日 江古田4号館(ベートーヴェンホール)落成
   ●10月15日 オーストリア共和国よりモーツァルト像寄贈される